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平野の街 あっちこっち

このページは、地元在住の郷土史家前田章賀氏のご好意で執筆いただき、祇園神社のある平野の街周辺をシリーズでご紹介していきます。

平野の街あっちこっち 第2回

郷土史家 神戸史談会々員  前田章賀

『雪見御所』

雪見御所
雪見御所
雪見御所
雪見御所

「雪見御所」ロマンチックで快い響きを感じさせてくれる名ではありませんか。平清盛が1167年、太政大臣を辞して出家し、平野の地に退隠して14年間、此の地で政治の陣頭指揮を執っていたのです。当時の書物や日記によれば「雪見御所」又は、「雪ノ御所」とどちらも表現されています。清盛公には四季を配した別業(別荘)があり、春は花見の岡の御所、夏は船見の浦の御所、秋は月見の浜の御所、冬は雪見の原の御所、その他、泉殿(でん)、松蔭殿、馬場殿、二階の桟敷殿や平家一門の館も周辺に甍(いらか)を並べていました。その中でも本陣とも申すべき中心地が禅門家即ち「雪見御所」なのです。

公卿、中山忠親の日記『山槐記』

によれば、

(1)清盛公の腹違いの弟、頼盛の荒田の山荘から四・五町(1町は109m)の処に「雪見御所」が在る。

(2)本皇居は、「雪見御所」の北に在る。

(3)本皇居の1町の処に湯屋(温泉)が在る。

以上3点から推察し、又当地の字名が「雪ノ御所」そして明治32年湊山小学校の校舎を建築する折、地中から平安末期の瓦や土器や礎石が出土し、総合的観点から判断して「雪見御所」の位置は現在の湊山小学校周辺に相違ないと判明したのです。

なぜ福原遷都を

では、何故清盛公は此の地を愛し、1180年に「福原遷都」を断行したのでしょうか。考えられる要因としては、

(1)東には、諏訪山、宇治野山、大倉山、西には会下山、頓田山、増田山の連山に囲まれ、フトコロに抱かれたような地形はかの有名な鴨長明の『方丈記』に「内裏は山の中なれど云々」又、西行法師の和歌に「深山(みやま)かと思ひ来ぬればさはあらで千鳥ヶ滝に潮ぞ満ち来る」と詠まれ、防禦の面で外敵を防ぐ要塞であったとうかがえます。

(2)地形が京都や鎌倉と似ており、陰陽道、風水の面から判断して吉相の地である事。京の都全体もそうですが、王城の鎮護神として、朝廷の篤い崇敬を受けている京都の下鴨神社、上賀茂神社の位置が東に高野川、西に加茂川の2つの川にはさまれ、この地形と類似しています。

(3)湊川の上流、現在の天王川、石井川の合流附近まで、高瀬舟で往来している有様がしのばれ、陸と海からの交に適していたこと

(4)病の為、太政大臣を辞し、出家して入道浄海と称し、平野に退隠するは、旧藤原勢力との軋轢(あつれき)や比叡山の僧徒の圧力で神経を消耗し、湯屋に近い処で療養せんが為。

以上の4点が挙げられます。
現在は湊山小学校の校庭の南側に「雪見御所跡地」の石碑しかありませんが、周囲を散策すれば当時の福原京の有様がしのばれることでしょう。

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