(前略)私どものいまの文明は、街も田園も食い荒らしている。だからひとびとは旅行社にパックされてヨーロッパへゆく。自分の家の座敷を住み荒らしておいて、よそのきれいな座敷を見にゆくようなもので、文明規模の巨大な漫画を日本は描いている。こんなおかしなことをやっている民族が、世界にかつて存在したろうか。(後略)
司馬 遼太郎著『街道をゆく24 近江・奈良散歩』朝日文庫
(前略)モノを考えるとき、写真を撮るとき、ぼくはじっと対象の本質がはっきりするまで胸に腕を組んで思考する。そして明解につかめたものにピントを合わせ、フレームの重心に据え、ほかのモノはアウトフォーカスにし整理する。対象が何であろうと見えてくるモノ、見えてこないモノはすべて相手次第で定まる。リアリズムである。その見方に立ち、モノを最初から見るとモノはそういうものであることがわかる。そして見えてきたモノだけを対象に苦しみ、戦う。(後略)
土門 拳著『強く美しいもの』小学館文庫
(前略)
都 もうだめかなって心底思ったことないですね。逆に、ほんとにもうだめなんだろうなって思うことなかったから、簡単にやめられたのかなとも思うし、それだけ歌の世界でうまくいってるのに、もしわたしが歌やめて子供を産んでも幸せなんかありえませんよ(笑)。子供産んで、家庭持って、結婚して・・・・・・。
五木 何かをつかむためには、何かをやっぱり犠牲にして、ささげないとだめなんだろうね。
都 それぐらいは覚悟しなきゃいけないかなと。
五木 覚悟か。ぼくもそれはやっぱりそうだと思いますよ。あれも欲しいこれも欲しいって言って、全部手にしたりしたら恐いもの、やっぱり。
都 三つのものが全部叶うなんて・・・・・・。そんなことありえないもの。
(後略)
五木寛之・都はるみ著『長い旅の始まり』東京書籍刊
(前略) お花見なんて、若者にはムリなんじゃないだろうか。
若者には未来が見えていない。だから必要以上に悩んだり、怒ったりして、お花見どころではない。でも年寄りには未来が見えている。未来も結局は現在なんだと言うことを知っている。
齢をとればとるほど未来がはっきり見えてきて、つまりこの世の出口が手探りながら漠然とわかってきて、そうすると現在の価値と言うものが、日増しに増して、今咲いている満開の桜を放置していられなくなるのではないか。満開の桜を見殺しにできなくなるのではないか。 (後略)
文芸春秋特別版『桜-日本人の心の花-』平成15年3月臨時増刊号掲載
赤瀬川源平著「齢をとるほどに桜に近づく」より
(前略)生命の基本単位である細胞は、ただ単に傷ついたり衰弱して死ぬというだけではなく、細胞自身がみずからの死を決定して死んでいくことが最近わかってきた。しかも、その死のプログラムは生まれつき遺伝子に組み込まれているのである。このいわば自殺とも言える細胞の死は、"アポトーシス"とよばれている。
アポトーシスの例としてよく引き合いに出されるのは、オタマジャクシがカエルに変身するときに尻尾が消えてなくなってしまうことや、・・・・・・・・・・
(中略)また、私たちの身体の中でも日ごろ気づいていないが、毎日多くの細胞が死んでいる。たとえば、血液の細胞や皮膚の細胞などの機能を果たし終えて老化した細胞や、ウィルス感染や紫外線などによって異常をきたした細胞がみずからアポトーシスのプログラムを発動して死んでいるのである。生命体はこの遺伝子に支配された巧妙な細胞の死によって成り立っているのである。また、それと同時に細胞の死は固体の老化・寿命にも密接に関わっている。(後略)
田沼靖一著『アポトーシスとは何か』講談社新書
伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐しみ、味わうことで終ってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉え返すべきだと考えます。
岡本太郎著『日本の伝統』講談社刊より
中国の五行思想で白を秋に配するところから生じた言葉。
「色なき」とは華やかな色のないこと。
芭蕉に
「石山の 石より白し 秋の風」
という句があるが、漢詩に親しんでいたことをうかがわせる。
高橋順子著『風の名前』小学館刊「秋の風」より
壮絶なアイススケートのトレーニングから吐き出されるその言葉は、
「厳しいトレーニングをやっていると、なんか動物に近くなるような感覚があるんですよね。もしかしたら僕らのやっているトレーニングというのは、後天的に埋め込まれた価値観を削ぎ落とす作業なのかも知れない。現在の文明や文化というのは、本当に人間に必要なものなんですかね。トレーニングをしてだんだん五感が研ぎ澄まされていくと、これは多分、動物の感覚に近くなることなんでしょうけど、そうするとなんか、今の社会には余計なものが沢山あるような感じに思えるんですよね」
吉井妙子著『神の肉体 清水宏保』新潮社刊より
『「月といえば桜は新月から満月にかけて咲くのや」と(造園家・佐野藤右衛門)はいわれた。そういえば古くから桜の絵にはどこかに月が浮かんでいる。
「藍も新月から満月にかけて建つのです」と私(染織家・志村ふくみ)は思わず言った。
「月ははぐくむんや、太陽は照らすんや。わしら陰暦の人間かも知れんな」と。
たしかに私も仕事場に月の暦をかけて藍を建てている。植物の色と月の関係はきりはなすことが出来ないと思っている。
「どうしたら今の世に何か伝えられるやろな。何か伝えたいな、志村さん。」と藤右衛門さんは言われた。』
志村ふくみ・志村洋子著『たまゆらの道』世界文化社刊「桜と藍」の章より
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