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平野の街 あっちこっち

このページは、地元在住の郷土史家前田章賀氏のご好意で執筆いただき、祇園神社のある平野の街周辺をシリーズでご紹介していきます。

平野の街あっちこっち 第3回

郷土史家 神戸史談会々員  前田章賀

文学の古里「平野」

平野が奥平野村と呼ばれていた明治二十二年までは、戸数が僅か百三十二戸程度の寒村でしたが、大正時代に入ると、文明開化の波も平野周辺に押し寄せ、山麓地帯の高級住宅地として繁栄し、一方、文学のゆかりの地として名をとどめています。

正岡子規

平野近郊には近代歌壇の巨匠と謳われた正岡子規が日清戦争の従軍記者として帰国途中、船内にて吐血し、伊藤博文が初代兵庫県知事在任中建設した神戸病院(下山手八丁目)に入院、門下生の高浜虚子や河東碧梧桐も病院の近くに間借りして、毎朝、諏訪山へ出かけてはイチゴを摘み取り、子規を喜ばせ看病にあたった処である。

田宮虎彦

掘割り筋
掘割り筋
掘割り筋
掘割り筋

その神戸病院から北へ二丁程行けば宇治野山があり、明治三十三年に真中を二つに切り開き「切り通し」又は「堀割り」と呼ばれ、山手から平野楠谷町に通じる道路が完成し、平野も一段と便利な街に発展します。その「切り通し」は神戸を舞台にした小説を残した田宮虎彦が青春時代を過ごした処で、徒歩で生田川沿いに在った神戸一中へ通学していました。

五味康祐

又、芥川賞を受賞した作家で時代物小説を多数執筆された五味康祐。五味麻雀教室で腕を磨いた雀士も多いのではなかろうか。五味氏も「切り通し」に住居されていた。

石川啄木

そこを通り過ぎると山麓線に突き当たり楠谷町に入る。楠正成の終蔦の地として伝説の多い処である。この町には石川啄木が函館で共に苦労し頼りにしていた最愛の妹、三浦光子が昭和四十三年七十九歳で亡くなる迄過ごされ、夫の三浦清一(東神戸教会牧師、社会党県会議員)と共に慈善事業に寄与致し「愛隣館」(親のいない少女を保護する施設)をクリスチャンとして奉仕。この地に佇めば啄木が青函連絡船で渡道する折に詠んだ「船に酔ひてやさしくなれる妹の眼見ゆ 津軽の海を思へば」の歌詞を想起させてくれる。

坂井華渓

「兵庫俳譜史」の稿を完成しながら上梓を待たずに逝った俳人坂井華渓も同町の住人。

江見水蔭

隣接した矢部町に足を運ぶと、明治三十一年に神戸新聞が栄町六丁目(旧三越の南角)で発刊、川崎社長が三顧の礼で招聘した東京の文壇で名を馳せていた江見水蔭を編集局の部長のポストに。彼の寓居が平野の一本松の東隣り、彼の回想録によれば「その時分には淋しい畑の中の一軒家も同然で二階から田畑を一目で安養寺山(大倉山)まで家一軒も見えなかった」と。その寓居には度々巖谷小波、田山花袋、柳田国男も訪れ数日滞在したとの事。

国木田収二

江見水蔭の後釜として「国民の友」の編集長で徳富蘇峰の門下生であった国木田収二が編集長にむかえられた。彼は「武蔵野」で有名な国木田独歩の弟で独歩が政治家の道を志したが頓挫してた頃、金銭の工面で弟が居を構えていた五の宮町に幾度となく訪れていたとの事。収二はフランス留学後に神戸新聞に入社したのだが、兄が果たせなかった政治家の道に転進する。神戸新聞を九年間在籍後、神戸市市会議員に立候補し見事当選。市の行政に貢献された。奥平野村二百七十九の五十九が彼の住所であった。

小磯良平

五宮神社
五宮神社
五宮神社
五宮神社

一本松から北へ坂道を登りきった処に村の鎮守の五宮神社が在る。道を隔てて東隣りが昭和の洋画界の巨匠、小磯良平の実家岸上家の屋敷が昭和の初期まであった。彼は平野小学校の第一期生(大正四年)で母校に「踊子」など数点の絵を寄贈、小学校と神戸二中の同級生で岸上家から南に五十メートルも離れていない田中忠雄の住居も在り、二中の同期生の竹中郁(詩人)と三人で五宮神社の境内でスケッチをしたりして遊んだ場所である。

田中忠雄

田中忠雄はキリスト教の聖書に関する絵の第一人者で武蔵野美大の名誉教授も勤められた。 近郊には花隈に戦前の画界の横綱と称された村上華岳がおり、奥平野村の南隣の坂本村には華岳と同期の巨匠橋本関雪、その南の西出町には小磯良平の二中の三年後輩、昭和の日本画の巨匠東山魁夷の出身地であり、平野周辺は全国でも珍しい画人の宝庫である。

夏目漱石

祥福寺
祥福寺
祥福寺
祥福寺

五官神社の西隣りは禅の修行道場で有名な妙心寺派祥福寺が在り、昭和六十三年に亡くなられた師家山田無文和尚は花園大学の学長、妙心寺派管長、禅文化研究所所長を歴任、禅の国際普及や戦没者南方慰霊に尽力された貢献は大きい。
大正三年四月から始まる祥福寺の雲水二人と夏目漱石の文通書簡が『漱石全集』に二十五通も収められている。漱石が亡くなる直前、二人の雲水は東京の漱石宅で一週間程滞在し東京見物や一緒に風呂に入ったりして漱石をよろこばしている。二人の雲水が帰神後、漱石の最期の手紙に「あなた方は私の宅へ来る若い連中(芥川竜之介、久米正雄)より遥かに尊い人達です。・・・・・・」と書き送っている。漱石が晩年「則天去私」の理想を追求した心境を文通書簡二十五通から垣間見ることが出来る。祥福寺は漱石が一度は参禅を希望していた寺院である。京都の妙心寺派「龍安寺」の石庭に代表されるが如く境内の庭が美しく、遠方から眺める多宝塔の景観もすばらしい。

吉川英治

左:天王温泉  右:湊山温泉
左:天王温泉  右:湊山温泉
左:天王温泉  右:湊山温泉
左:天王温泉  右:湊山温泉

祥福寺を後にして夏の風物詩祇園祭りで賑わう祇園神社に足を運ぶと大衆文学の大御所、吉川英治が「新平家物語」を執筆するに当たり事前調査で平野に来訪、祇園神社の下の天王川の橋の欄干から一望し「湯やが見えますね」と案内役の詩人富田砕花に語りかける。「湯屋って何ですか」と問い返す。「平清盛の館、雪御所の北に在ったと伝わる温泉ですよ」黄昏を忘れて二人の対話は続く。 平野は平清盛や楠正成の旧跡だけにとどまらず、まさに近代文学の古里でもあるのです。

(文中の人名の敬称は略させて頂きました。)

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